街道をゆく『天ぷらのみち』
◎すみません、今日は少し長いです。
【街道をゆく。テンプラのみち】
先週は夏休みをいただきまして、失礼いたしました。
今年の夏休みはどこへも行かずじまいでした。
のんびりさせていただきました。
昨年は 司馬遼太郎の
「街道をゆく23『南蛮のみちII』」に触発されて
ポルトガルを旅してきたのでした。
その『南蛮のみちII』にポルトガル語から転じた日本語を、
つづった文があります。ベランダ、メリヤス、ビロード、
ボタン、ラシャ、マント、などがでてまいります。
ところが、テンプラがでてこないのです。
天麩羅(テンプラ)の語源には諸説ありますが
ポルトガル語から転じたというのが定説かと思っていました。
司馬遼太郎は何故テンプラを避けたのか。
ポルトガル語が語源ではなかったのか。
あみ亭おやじ ごときにわかるはずはありません。
が、その諸説を追いかけてみましょうか。何か手懸りが。
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◆今日の品書き(もくじ)
■天麩羅(テンプラ)の語源
【1】山東京山による山東京伝・命名説
【2】天明年間(1781-1788年)以前のてんぷら
【3】外国語 語源説 その1
【4】外国語 語源説 その2 中国語説
【5】あとがき
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と、はじめては見ましたが、もうお手上げ。だってね、
江戸時代からすでに、てんぷら語源論争があったんですから。
【1】山東京山による山東京伝・命名説
有名なおはなしですからご存知の方多いのでしょうが、
ご紹介しておきます。
まず登場人物3人。
・山東京伝(1761-1816 さんとう・きょうでん)戯作者、
浮世絵師、学者
、狂歌師、喫煙具商などなど。生涯に名が
33個あったといわれる。
・山東京山(1769-1816 さんとう・きょうざん)。
京伝の実弟。戯作者、篆刻家。
・鈴木牧之(1770-1842 すずき・ぼくし)越後の文人、
紀行作家。新潟県南魚沼郡に鈴木牧之記念館がある。
さあ、始めましょう。その前にグラスの
●飲み干しちゃってください。もう1本抜きましょうか。
すみませんが手酌でどうぞ。
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【1】山東京山による山東京伝・命名説
18歳で画家として世に出たました京伝は20歳ごろから、
黄表紙といわれる絵入り読物を書きはじめ、それらは大好評。
その後、遊郭を描いた洒落本を出し これも大人気。
風俗を乱す本を出したかど で50日間の「手鎖の刑」に
処されるのはもっと後の話。(1791年30歳ごろ)
京山は兄に倣って、戯作者になったんですな。で、
1846年に出した著書、『蜘蛛の糸巻(くものいとまき)』の
なかで、「今は天麩羅の名も文字も、海内に流伝すれども、
亡兄 京伝翁が名付け親にて、、、」と綴る。
亡き兄、京伝が、天明の初めごろ(1781年ごろか)に
「天麩羅・てんぷら」という語をつくったというんです。
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近世越後の雪国の世界を描いた傑作といわれる、
鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』が
世に出たのはは天保8年、1837年。
牧之(ぼくし)68歳。執筆を志してから約40年。滝沢馬琴や
山東京伝に出版を依頼したが叶わず、京伝の弟、京山の手に
よって江戸文渓堂から刊行。
本来は越後の生活や年中行事を紹介する民族誌である
この書に、京山は、てんぷらの名付け親は京伝であると
自説を掲載させているのです。
その仔細(しさい)を京山はこのように続けます。
京伝のところへ出入りの利助という男がきて、
「大坂にて つけあげ といふ物、江戸にては胡麻揚げとて
辻売りあれど、いまだ魚肉揚げ物は見えず」と言う。そして、
「これを夜店に売らんに、そのあんどんに、魚の胡麻揚と
しるすは、なにとやらん物遠し。語声もあしく、
先生名をつけてたまはれ。」
それで京伝は「天麩羅」と書いてやったのだと。利助は
大阪から駆け落ちしてきた男ですから
天竺浪人(てんじくろうにん。宿無しのこと。)。
天竺浪人がふらりと江戸へ出て辻売りをするのだから、
天竺のテン、ふらりのフラで てんぷら。
漢字にいたっては、天竺浪人の天、「是に麩羅といふ字を
下したるは麩は小麦の粉にて作る、羅はうすものと
よむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふことなり。」
ということだそうで。
以上が、京山による兄、京伝の天麩羅命名説。なのですが
、これが後に簡単にくつがえされてしまいます。
●が空になってしまいましたね。そうですか、
●●になさいますか。いつものお気に入りのやつ、
ひや(常温)で。かしこまりました。
先ほど申しましたように、京山によりますと京伝が
「天麩羅」と命名したのは天明の初年であるとなって
おります。
天明年間は8年間、西暦で1781年から1788年です。
それに以前に てんぷらという語はなかったのでしょうか。
有名な話しでは、徳川家康は鯛のてんぷらにあたって
死んだというのがあります。
元和(げんな)2年(1616年)、
京の豪商、茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)が
駿府(静岡)の家康のもとへ年賀に来たとき、京都で
流行っている食べ物を紹介した。
正月の21日、家康は
田中城(今の焼津市か藤枝市か)近郊へ鷹狩りに
出かけた時に、茶屋四郎次郎が伝えた料理を作らせ食べた。
それは、鯛を油で揚げて韮(ニラ)をすりかけたもの。
同日、深夜にわかに腹痛をおこし発病。その病状は
一進一退するが3ヵ月後の同年4月17日に死去。
享年75歳。(『徳川実記』)
これが家康、鯛のてんぷら中毒死亡説の出所なのですが、
この話ではまだ「てんぷら」という語はでてきません。
家康没53年後の
1669年(寛文9年)『料理食道記』に
「てんふら 小鳥たたきて鎌倉、えび、くるみ、
くづたまり、、」とあり、「ぷ」ではなく「ふ」となっている。
1672年(寛文12年)
『料理献立集』に「きじ、てんふらり」という
「り」がついた語があらわれる。
だけど、これどんなものかは(わたしには)
分からない。この「てんふらり」、あとで出てきますから。
1746年(延享3年)
『黒白精味集』(こくびゃくせいみしゅう)に「てんふら」の
作り方がでてくる。鯛の切身にうどんの粉を卵でねった
衣をつけて油で揚げる、とあり、まぎれもなく てんぷら の
登場です。
ですが、これは写本といいまして手書きの本です。
版本/刊本としては、翌々年1748年(寛延元年)刊行の
『料理歌仙の組糸』(かせんのくみいと)があります。
この本には「きくの葉てんふら、、」
「鯛切身てんふら、、」があり、「てんふらは何魚にても
饂飩(うんとん=うどん)の粉まふして油にて揚げる也。」
と
づきます。
これは、今でいう「空揚げ」ですね。
さらに「但まえにある 菊の葉てんふら又ごぼう
れんこん長いも 其外何にてもてんふらにせん時は、
饂飩(うんとん)の粉を水醤油 ときぬりつけて揚げるなり」
とありますから、野菜の衣には醤油味をつけていたんですな。
これは普茶(ふちゃ)料理の油じ(ゆじ)を連想させますね。
そのあと、「常にも、右の通にしてもよろし」と
出てきますから、魚でも醤油味の衣あげOKということです。
どうも、このあたりが、「てんぷら」の初出ということに
なるらしい。
宝暦年間(1751年ー1763年)に入りますと
1760年(宝暦10年)『献立筌』(こんだてうけ)
1764年(宝暦14年)『料理珍味集』
『當流料理献立抄』(とうりゅうりょうりこんだてしょう・
刊年不記)、
など、現代のものに近い「てんぷら」がでてまいります。
というわけで、天明年間以前にも「てんぷら」という言葉は
あったようです。
京山がいう京伝・命名は覆(くつがえ)されてしまいました。
ですが、 名付け親は京伝でなくとも、
「天麩羅」の漢字をあてたのは京伝であると、
私、あみ亭おやじはとしましては 思いたいのであります。
ところが、
京伝は 1795年(寛政7年)に出した
『花之笑七福詣』という本にてんぷらの挿絵を
載せているのですが、なんとその絵には
「名代 てん婦ら」となっているのではありませんか。
すると京伝が漢字「天麩羅」を考えたのだというのも、
京山の創作かもしれないね。
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これ以後江戸では屋台の天麩羅が普及してまいりますが、
その語源については 定説がみつかりません。
「天麩羅阿希」と書いて(あぶらあげ)と
読ませるとこらから、という
1843年(天保5年)の『虚南留別志(うそなるべし)』や、
その10年後の
喜田川守貞の『守貞漫稿』(1853年嘉永6年)では、
京阪では魚のすり身を揚げたものを てんぷら とよび、
江戸のてんぷらは つけ揚げという、と出ております。
「つけ揚げ」というのは、先ほどでてまいりました。
天竺浪人、利助のところで。
ややこしいでしょ。おなかすきましたか。いま、
穴子のてんぷら、揚げてますから もう少し辛抱してください。
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【3】外国語 語源説 その1
わたしの手許にある「広辞苑」(昭和47年版、古いね)で
「テンプラ」を引くと、
「temporaポルトガル(語)斎時の意ともいう」とでています。
また、小学館の「大辞泉」(1998版)では語源は
ポルトガル語やスペイン語など諸説ある、となっております。
近代の国語辞典の第1号といわれている大槻文彦の
「言海」(1889年ー1891年(明治22年ー24年)刊行)では、
ポルトガル語説を併記して
「テンプロ(templo)」をあげ これは「キリスト教寺院」の
ことだとしながらも、てんぷらの語源としては強引過ぎる
かもしれない、としているそうです。
その後の「大言海」(1932-1937年)は
「テンポラ(tempora)」にその語源説を変えているそうです。
「断食の日」の意味だそうです。
私の「広辞苑」とおなじですね。ところが、テンポラは
イタリア語だそうで。私は調べたわけではありませんが
イタリア語だとしたら唐突すぎはしませんかい。
江戸時代、それほどの親交がイタリアとあったのかい。
すみません。あげあし取るつもりは毛頭ございません。
外国語説を整理しておきます。
・ templo ポルトガル語 キリスト教寺院
・ tempora イタリア語 キリスト教の断食の日
・ tempero ポルトガル語 調理
・ tempra インドの方言 ポルトガル語のtemperoが
変化
・ templar スペイン語 味をつける 温める
・ temperar ポルトガル語 味をつける 温める
・ templanza スペイン語 節制
・ templa スペイン語 テンペラ絵の具
・ tempra イタリア語 焼きいれ
なんだぁ、こりゃ。頭にテンペやらテンプ持ってくる語を
探せばいくらでも出てきそうだね。
でもねこれ全部、あたしが本、雑誌、辞書、ネットで調べた、
名のある先生たちの御説ですからね。おもしろいしょ。
インドの方言まででてきちまうあたり。それがイタリア語と
同じだったり。
あ、いけねえ。さっき私が生意気言いました、テンポラは
イタリア語だけでなく、スペイン語でもあるんですって。
もう、穴子のてんぷら召し上がってしまったんですか。
そろそろ、お食事がいいんですか。
あと少しだけお付き合いください。
中国語源説をほんのさわりだけ。
そしたら天茶(てんぷら茶漬け)でもおつくりしますから。
【4】外国語 語源説 その2 中国語説
もうお忘れでしょうか、『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』。
そうです。2本目の●のときにお話した
鈴木牧之(ぼくし)の越後民族誌。
これに出てくるんですね。中国語源が。
京山が京伝命名説を披露したあと、北海園という人が
明(みん)の『事物紺珠』という書に
てんぷらに似た料理の記述があるという。
「塔不刺(たふり)}という料理だと。これは
本当は「塔不刺鴨子」と書き、「たぷらやーず」という。
ちょっと苦しいけど、音的にはてんぷらに似ていなくはないか。
これこそ、「てんふらり」だ、というう学者も
いらっしゃいます。
「てんふらり」、覚えておいでですね。●から●●に
変わった後で出てまいりましたでしょう。
で、べつの学者さんは 「塔不刺鴨子(たぷらやーず)」は、
オランダから明にわたり、中国料理になったものだと、
おっしゃいます。
でもこれは、スープ料理なのだ、てんぷらとは
関係ないとする、先生もおいでです。
諸説にぎやかでしょう。あたしのとこは
夏枯れでしょうか、賑わいに欠けていますが。
さっきの明治時代に出た「言海」に中国語源説、
一つ載っていまして、「転不稜(テイエンブロン)」。
しかし大槻先生、これは疑わしい説であることご自身で
書いてらっしゃるそうです。
「顛不稜(テイエンブロン)」とも書き、
餃子みたいなものですって。
さあ、天茶まであとすこし。あたしのじゃなくて
お客様の天茶。
1715年(正徳5年)近松門左衛門の浄瑠璃、
ご存知『国姓爺合戦(こくせんやがっせん)』。
明朝復興を目指した国姓爺の戦乱記。これに出てくる
唐人唄の中に 「テンプラ」という詞があるそうな。
これ、未確認情報ですけど。
どうも、どうも、お待たせしました。
熱いのでお気をつけてお召し上がりください。
あたしも奥へ引っ込んでいただいてまいります。腹減った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【5】あとがき)♪Misty 1954 (w)Johnny Burke (m)Erroll Garner
てんぷらの語源については、定説 さだまらぬのが定説、
といったところでしょうか。いまだ 霧の中です。
さすが司馬遼太郎はこのようなこと、先刻ご承知で、
ポルトガル語から転じた日本語の中にテンプラを
入れなかったのですな。
今日は長くなってしまいました。これでもずいぶん
端折ってるんですが。テンプラに関してのおもしろ話またいづれ。